オーキド博士は2つのことをドわすれしていた。ひとつは昨日自分で書いた、研究メモの内容である。メモの末尾に書かれた「新たな論として発表するには」という文を前に、博士は途方に暮れていた。これはなんとかしなければ。現在、朝8時のオーキド研究所のデスクはお世辞にも綺麗とは言い難いが、積まれた書籍と大量のメモを手に取り、博士は昨夜の記憶をつなぎ合わせはじめた。
ポッポが普段いない場所にいた、たったそれだけの情報が博士の予定を狂わせた。オーキド博士の元には日々、ポケモン図鑑に新しく登録されたデータが送られてくる。博士が図鑑を渡したトレーナー達が、各地でポケモンをゲットしている証拠だ。それで昨日の夕方送られてきたのが、そのポッポが分布外の場所でゲットされたデータだった。オーキド博士は根っからの研究者だ。翌日も早いことなんてお構いなしに、興味深いデータが手に入ったと分かるやいなや、スイッチが入ってしまった。
トレーナーは目当てのポケモンを探す際、またはポケモンに遭遇し、どのような生態なのか確認する際にポケモンの「分布」を活用することが多い。しかし、研究者側の視点で捉えると、分布とは生き物と自然環境にとってきわめて重要な指標である。ポッポがどこにいようと些細なことと思われるかもしれないが、トレーナーがにがしたのか?なんらかの要因による一時的な大量発生なのか?現在発表されている分布に変化が起きたのか?……オーキド博士の頭の中にはさまざまな可能性が浮かんでいた。清書は後で良い。ひとつひとつの可能性を洗い出し、文献を参照して、手元のメモに筆を走らせる。ひと段落ついた頃にはすっかり夜が更けてしまっていた、はずだった。
しかし、朝になった今見返すと、メモは「新たな論として発表するには」と文の途中で終わっているのだ。ひと段落ついていないではないか!なぜここで終わらせたのか思い出せないまま、太陽の位置は高くなっていく。焦りを覚える中、ふと足下を見ると一枚の写真が落ちていた。ノートにでも挟んでいたのが気づかないうちに落ちたのだろう。随分と昔の写真だ。写真の中の博士は若々しく、希望に満ちた目をしている。まるで不安や焦りなんて一切無縁とでもいうように。もうこの頃の自分ではない。昨日の研究も忘れるなんて歳なのかもしれない。そう思いつつ写真を拾うと、博士は目を見開いた。写真の裏に「更なる調査が必要」の文字、続いて具体的な調査方法がびっしりメモされていたのだ。なんと、気づかない内にメモからはみ出して写真に書いてしまっていたらしい。たちまち研究の記憶が戻り、夜更かしを無駄にせず済んだと胸をなでおろした。
もうひとつのドわすれについては…、緊張と期待が入り混じった足音が聞こえてきたので、もう大丈夫。
「そうだ 思い出したぞ!」
今日は新人トレーナーが来る日だ。深夜まで研究に没頭してうっかり忘れていたが、寝坊してトレーナーより遅刻、という事態は回避できたようだ。ちゃんとモンスターボールは3つ、それにポケモン図鑑も用意できている。「更なる調査」には、ここから旅立つトレーナーが不可欠なのだから。もしかしたら今日渡した図鑑がきっかけになって、今までの論文すべてを覆すような発見があるかもしれない。もう歳か、なんてよぎった後なのに、博士の心はまるで少年のように踊っていた。オーキド博士は根っからの研究者なのだ。数秒後には研究所の扉が開かれるだろう。また新たな旅がはじまる。博士の研究に終わりはない。