「もうそろそろ、バケツ返してよ~」
本日も晴天。釣り人は、テントの横に置いてあるバケツに向かって苦笑していた。彼女の父お手製のバケツには、オクタンが棲みついてしまったのだ。
この桟橋に、『海の魔物』が出没するという噂を聞きつけてテントを張ったのだが、目を離したすきにオクタンは釣り人からバケツを奪ってしまった。取り返そうとすると、思い切り頭突きまでされる始末。海の魔物が現れるまで貸すだけだからね、と念を押し、彼女は海に竿をたらし始めた。
温かい日差しに眠気を誘われ、あくびを噛み殺していたその時だ。桟橋が突如、激しく左右にぐらぐらと揺れ始めた。咄嗟に海をのぞき込むと、巨大な魚影がものすごいスピードで近づいてきている。慌てて陸へ逃げようとするが、大事なバケツとオクタンがそのままだ。このまま置いて行けない!魚影が勢いよく桟橋を突き上げた。巨大な水しぶきが巻き上がると同時に、オクタンもろとも釣り人は海へと放り出される。
なんとかバケツを確保した釣り人だが、かなり深いところまで沈んでしまった。オクタンも背後でびっくりした顔をしているが、無傷のようだ。とにかく、息が続いているうちに水面へ上がらなくては。そう決めて顔を上げるが、そこには真っ暗闇が広がっていた。おかしい、先ほどまで明るかったのに――。
辺りを見回し、状況を理解した釣り人の顔がみるみる青くなる。暗くなったのは、先ほどの魚影が、水面を覆い隠しているからだ。大きな影がゆらりとうごめき、釣り人を見下ろす。恐怖のあまりバケツをギュッと抱きしめた。お父さん……助けて――。
すると、バケツが急に重くなる。オクタンがバケツの中に戻ってきているではないか。呆気に取られていると、オクタンが魚影に向かってハイドロポンプを撃ち込んだ!
すると、魚影はそれを避けるように四方八方に散っていく。広がる青い空……!
しかし、ハイドロポンプが起こした水流と、散り散りになった魚影の起こすうねりが、釣り人とオクタンの身体を海の深くへと引きずり込んだ。足でもがいても、あらがえない。……もうだめだ。そう絶望した釣り人の背中に、何か尖ったものがいくつも触れた。先ほど散り散りになったはずの小さな魚影、ヨワシたちが、申し訳なさそうな顔で釣り人たちを海面へと押し上げていった。
まさか魔物の正体が、ヨワシたちだったなんて。地元の人によると、見慣れない人間が桟橋にいると、追い返そうと魚群を作って脅かしてくるのだそうだ。『海の魔物』なんて呼ばれているのは、観光客を怖がらせて事故を防ぐ意味もあるのかもしれない……。
別の大物を探しに他の町に行こうにも、オクタンはさっきよりも深くバケツに沈み込んで、まったくバケツを返す様子がない。
「もしかしてあんた、私じゃなくてバケツを助けたかっただけだったりして――。ちょっと、どうなのよ?」
釣り人が腕に触れると、オクタンは思い切り彼女の顔に墨を吐いた。やっぱり――可愛くない!
「バケツ、返せえええええっ!」
仲良く喧嘩するオクタンと釣り人の合間で、ヨワシがアワアワと、目を潤ませていた――。