「ナナカマド博士、この4年間はどんな研究を?新しい研究分野に取り組んだりしたのですか」
記者に尋ねられ、ナナカマド博士が返答するまで約10秒の沈黙が流れた。思い浮かべているのは1匹のムクバードのことだった。
近頃この辺りでムックルの集団がイタズラをしてきて困っている――そう聞いたのは、ナナカマド博士がシンオウ地方に帰還し、まだ荷解きも終わっていない時だった。町の住人の話を聞くに、まだ幼く、好奇心旺盛な時期なのだろう。だが、集団でいることで強くなったつもりでいても、それは勘違いに過ぎない。しかるべき時にちゃんと自分で学んでいくものだ。そう説明しても住人は怒ったままだった。
「教育熱心なナナカマド博士ですから、ムックルの教育だって、きっとお手のものなんでしょう?」
住人の言う通り、ナナカマド博士は研究だけでなく、後進の指導にも取り組んできた。教え子は著名な研究者からポケモンリーグのチャンピオンまで、様々な分野で活躍している。とはいっても博士は教育の専門家ではない。では何故自分は指導にも打ち込むのだろうか。ふと思って考えていると、さっきまで威勢の良かった住人が遠慮がちになり、去っていってしまった。どうやら長い沈黙のせいか、怖いと思われたようだった。
博士の荷解きが終わったのは数日後の朝のことだった。研究所にはまだ助手も誰もおらず、澄んだ朝の空気と解放感に深呼吸をすると、ポケモンの鳴き声が聞こえてきた。すぐ近くにいるようだ。さっきまで整理していたカバンを持ったまま、博士はドアを開ける。
ムクバードだ。それも恐らく進化したばかりの。ムクバードは博士のカバンに気がつくと、じっとそのカバンを見つめた。やんちゃなムックルの話が博士の頭をよぎる。先日、シンジ湖でも子ども相手にムックルが飛び出したと聞いた。それは野生のテリトリーに入った子どもも悪いのだが、もしかしてこやつが、その――。ハッとして周りを見るが、仲間集団もいない。イタズラをしてくるわけでもない。聞いていた話と違うと博士は首をひねる。もう一度ムクバードを観察してみると、その瞳はやけに凛としていて、大人びた気配すらあった。
そこで合点がいった。このムクバードは自分を成長させてくれる相手と出会ってバトルをして、そして強くなったのだろう。もしかしたら、強くなった姿で今度はひとり、勝負を挑みに来たのかもしれない。博士は「すまんが、今はカバンには何も入っておらん」と言って、カバンを開けてみせた。ムクバードはそれを見て納得したのか満足したのか、翼を広げて羽ばたき、研究所の周りを旋回する。
ムックルは集団を形成して生息しているが、ムクバードに進化し、やがてムクホークになると群れずたったひとりで生きていくという。急に大人びたムクバードの瞳は、やがてムクホークになり、ひとりで生きていく未来を見据えているかのようだった。進化とは、こういうことなのだ。その時、博士の心につっかかっていた何かが取れた。こちらの想定を飛び超えて、生きものはブレークスルーを起こしていく。教育や指導といっても自分の出来ることなど少ないが、自分はそれを見ていたい、知りたい。そう考えたら、進化の研究と指導のどちらも、惹かれる理由は似ているのかもしれない。ムクバードはそれから毎朝研究所の周りを飛んで行くようになり、その成長を見守るのがナナカマド博士の日課になった。
「ナナカマド博士、この4年間はどんな研究を?新しい研究分野に取り組んだりしたのですか」
約10秒の沈黙のうちに記者には怖いと思われたかもしれないが、ナナカマド博士はムクバードのことを思い、満足げに答えた。
「ずっと変わらず、私の専門は『進化』だ。進化という現象には、いつまで経ってもドキドキさせられてしまうんでね」