これは王子様がお姫様を助けるおとぎ話でもないし、世界中を旅する冒険譚でもない。主人公は、数百年間いたって平和に富豪の家を渡り歩いてきた或る機械仕掛けのポケモンで、大きなお屋敷の小さな部屋がその舞台だ。お屋敷の主人に見つからないうちに、こっそりその一部始終をのぞいてみることにしよう。
いつも羨ましかった、外の草原が。電光石火の速さで草原を駆けていく者たちが。
お屋敷のマギアナは毎日決まった時間に窓の外を眺める。主人の書斎を整える時間だった。マギアナはその昔造られた、機械仕掛けのポケモンだ。高貴な人物に献上されてから長い時が経ち、持ち主は変われど、大事に大事にされてきた。それに応えて、今日もマギアナは広いお屋敷を隅々まで整える。書斎の窓は閉じられていて、背の高い草が揺れる様子で今日は風が強いのだと知る。この風の中を走り抜けたら心地よいのだろうか。人の手によって造られ、人のお世話をする機会が多かったから、マギアナには自由に駆け回る野生のポケモンの気持ちが分からなかった。
その時、窓の外に突然大きな顔が現れた。不意を突かれたようだった。だが、マギアナの精密な機巧は、驚きよりも早く、表情を読み取ろうとしはじめる。窓ガラス越しに観察するも、その表情は虚無に近く、その目はマギアナを捉えているはずなのに動かない。感情を同調させる機能を持つマギアナだが、この相手が何者で、何をしに来たのか、読み取ることができなかった。マギアナは次の可能性を探り出す。きっとこれは機械仕掛けだ。だから自分と同じように表情に動きがないのだろう。もし平和なお屋敷を荒らすための装置だとしたら、極めて危険性が高い。マギアナは上半身を引っ込めてボール型に変形する。ここまで僅か3秒。相手の反応を待つ。しかし、ボール型になったマギアナに、相手の表情はなお変わらない。窓ガラス越しにわずかながらに感知できるのも、戸惑いや興味といった類のもので、敵対心や攻撃性ではない。どうやらこの機巧ポケモンはお屋敷を荒らしに来たのではないみたいだ。だとしたら……。マギアナは歯車を回すように一生懸命考えを巡らせ、そして、あり得るひとつの可能性に辿り着いた。もしこのポケモンが、外の世界から来た仲間だとしたら。もし、自分を見つけてくれたのだとしたら。
“違う” ――ガラス越しに何か聞こえた。頭を大きく振り、足を収縮させ、マギアナに否定を示している。改めて見ると、今まで顔だと思っていたのは相手を驚かせるための模様で、ホンモノの顔はその下にちゃんとあった。どうりで今まで表情が動かなかったわけだ。常に身を守る必要があるポケモンならではの生態を、人の保護下にあるマギアナは予想できなかった。マギアナはホンモノの顔をまじまじと見つめる。焦って目が泳いでいた。機械のマギアナにはこんな感情的なリアクションは出来ない。マギアナは話すことだって出来ない。どうやら相手は自分と違って「普通の」ポケモンのようだ。そうか、“違う”とは“生きる世界が違う”ということか。マギアナは自分が空っぽになるように感じた。いや、そもそもはがねで出来た空洞の身体だ。期待したのが間違いだったのだ。
マギアナはボール型から通常の姿に戻り、その場を去ろうとした。書斎の整頓の次は大広間へ、毎日の習慣通り。しかし、そのポケモンはいまだに何かを訴えかけている。違う、違う、と声や身振りで示し続けている。マギアナが首を傾げると、そのポケモンはいとをはく。糸は窓ガラスに当たり、マギアナには届かない。だが、次の瞬間、強い風が吹いた。粘度の高い糸に引っ張られるようにして、窓が開く。
風が入り込んできた。部屋の中にも、マギアナの人造の魂にも。想像していたよりずっとあたたかい風が吹いた。このポケモンは、違う、敵じゃない。仲良くなりたいと言いたかったんだと、ようやく魂が感じ取った。マギアナは喋れない代わりに手を差し出す。
“同じ世界に生きているんだね”
そう伝えたくて、機械の手がふるえていた。
こうして、機械と糸のぎこちない握手は、或る機械仕掛けのポケモンと、或るむしポケモンの友情のはじまりとなった。これは大きなお屋敷の小さな部屋で起きた出来事だ。もしお屋敷のご主人とあなたが知り合いでも、このことは秘密にしておいてほしい。