これは王子様がお姫様を助けるおとぎ話でもないし、世界中を旅する冒険譚でもない。主人公は、或る譲れないこだわりを持つむしポケモンで、大きなお屋敷の小さな部屋がその舞台だ。お屋敷の主人に見つからないうちに、こっそりその一部始終をのぞいてみることにしよう。
いつも不思議と興味を惹かれた、屋根の下の静謐な空間に。そこに大事そうに並べられた物たちに。
イトマルは枝にぶら下がり、視界の先に見えるお屋敷を眺める。この中は、野生の自分には決して触れられない異世界だった。今日はもう少しよく見てみたくなって、イトマルは垂らした糸を頼りにお屋敷の窓へと近づく。室内を覗くと、壁一面に所狭しと書籍が並べられていた。イトマルにはそれが何か分からなかったが、その隅々まで整頓された美しさにただただ見惚れてしまった。いつか緻密で美しい巣を編めるようになりたい、それがこのイトマルの夢だったのだ。
その時、室内を眺めていたイトマルの目の前で、はがねの歯車が突然まわった。不意をつかれ、イトマルは硬直する。こんな近くに誰かいたのに気づかなかったなんて。野生の勘が危ないと警告を出し、慌ててどくばりを突く構えを取る。すると、目の前の何かは突然歯車をしまい、球体へと変身した。それがあまりに素早く無駄のない動きだったので、イトマルは目を見張ってしまった。もしかして、この球体も自分と同じ生き物なのか。美しいお屋敷に住むポケモンは、やっぱり恐ろしいほど精密なんだと心がふるえた。このポケモンと仲良くなることは出来るのだろうか。壁に並べられているものは何か、天井のキラキラ光っているものは何か、このはがねの美しい歯車は何なのか、教えてくれないだろうか。
しかし、その望みも束の間、そのポケモンは、球体になることで身を守ろうとしていると気づいた。イトマルを警戒し、身も心も閉ざしてしまったようだ。もしや、お屋敷を荒らす不届きものだと思われたのか、それは“違う” ――イトマルは思わず「声」をあげた。窓ガラスを超えて聞こえるのかも分からず、首を横に振ったりして、敵ではないのだと必死にジェスチャーする。相手の反応は薄い。伝わっていないのだろう。いや、そもそも生きる世界が違う相手だ。何か伝えたところで、なにひとつ分かり合えないんじゃないか。虫の知らせは的中し、そのポケモンは部屋から去っていこうとしていた。
このイトマルは今まで、他のポケモンから糸が邪魔だと文句を言われても、とりポケモンにせっかく作りあげた巣を壊されても、心が折れないように努めてきた。自分が自分の美学を認められればそれでいいのだと。でも、きっとどこかで誰かに聞いてほしかったんだと、はじめて気がついた。悲しみで糸から力が抜けそうになったその時、去ろうとしていたポケモンが振り返った。首を傾げてイトマルを観察し、意図を探ろうとしている。届かないと分かっているのに、イトマルはいとをはいた。お屋敷にいとをはくなんてしたくはなかったのだが、言葉よりも雄弁な自分の糸に思いを込めるしかなかったのだ。もちろん、一縷の望みは窓ガラスに張り付くだけだった。だが、次の瞬間、強い風が吹いた。木が大きく揺れ、ぶら下がっているイトマルも飛ばされそうになる。粘度の高い糸が窓ガラスを引っ張り、窓が開いた。
その部屋は風が入り込んでも、美しくて厳かな静けさを保っていた。あたたかい風が吹くなか、お屋敷のポケモンが手を差し出した。表情は機械のように動かないが、イトマルにはその美しいポケモンが握手を求めているのだとちゃんと分かった。
“聞きたいことがたくさんあるんだ”
そう言う代わりに、糸で握手を返した。
こうして、糸と機械のぎこちない握手は、或るむしポケモンと、或る機械仕掛けのポケモンの友情のはじまりとなった。これは大きなお屋敷の小さな部屋で起きた出来事だ。もしあなたの近くのお屋敷の窓際でイトマルを見かけたとしても、そっとしておいてほしい。