握りしめて、投げるだけ。よく狙って、投げるだけ。渡されたばかりのモンスターボールを片手に、新人トレーナーの少年はブツブツと独り言を繰り返していた。ボールを握った手はひどく冷たい。季節外れの寒さからなのか、緊張しているからか、自分じゃ分からなかった。初めてのフィールドリサーチに出た今、見慣れた景色もまるで違って見える。何を捕まえられるだろう。初日でいきなり珍しいポケモンを捕まえたら、博士も驚くだろうか。詳しくレポートして、「こんな優秀な新人ははじめてだ!」なんて言われてみたい。背丈も随分伸びたし、もう子どもじゃないと結果を出して証明したかった。しかし、夢見るトレーナーに反して現実はなかなか大変だ。歩き回ってポケモンを見つけても、ボールを構えているうちににげられてしまう。ああ、ほらまた。これで何回のチャンスをふいにしただろう。少年が項垂れていると、後ろからポケモンの鳴き声がした。軽快な声、なんだか笑われているような気がする。もうディグダになって穴を掘りたい。一瞬のうちにそんな現実逃避をしてしまうくらい、最悪な気分で振り返った。
すると、真後ろで満面の笑みを浮かべたポケモンが少年を見上げていた。まんまるな目に、大きな耳。それに手のような大きな尻尾が揺れている。こいつは……。調べてみるとエイパムというらしい。エイパムはニコニコ笑ってこちらを見ている。人懐っこいポケモンというのは、こう、分かりやすい態度を取るものなのか。いざ目の前にすると、珍しいポケモンだとか博士の評価だなんて、どうでも良い。今がすべてだ。少年はボールを構える。あとはよく狙って、投げるだけ。
ボールは綺麗な弧を描き、そしてエイパムは……横に避けた。「え?」思わず声が出る。ひるんでいる場合じゃない。もう一度構えて同じように投げる。すると今度は長いしっぽでビンタするように、ボールを弾かれた。転がるボールの音がリズムよく響くが、エイパムは逃げもせず、相変わらずそばでニコニコニコニコ笑っている。
少年はやっと気づいた。遊ばれているのだ。野生の勘というのは、どうやら自分にとって安心安全な新人トレーナーを見分けるらしい。このやろう、バカにするなよ。どうやってでも捕まえてやる。あとはもう夢中だった。ありったけのモンスターボールを投げつけ、エイパムは楽しそうにそれを避ける。ちょこまかと走り回るのを追いかけていたら、辺りは知らない景色になっていた。どれだけの時間が経ったのだろう。新品のスニーカーは泥だらけになっていて、エイパムだって息があがっている。
「おい、そろそろやめようぜ。群れに帰る時間だろ」
少年は切り出した。やられっぱなしが悔しくて、せめて大人の対応をしてやろうと思ったのに、口に出すと子どもの負け惜しみみたいだ。しかし、エイパムはこの日はじめて笑うのをやめて、スッと真面目な顔をして少年を見た。ちゃんと耳を傾け、向き合ってくれている。
「なんだよ。もうちょっと早く、そういうのはなー……」
だって、もうバッグは空っぽなのだ。
「分かった、明日もここに来るから」
そうしたら、捕まってくれる?とは言わなかった。いま芽生えたばかりの、少年なりのプライドだった。自分の実力で捕まえなければ意味がない。どうやってでも手に入れると意気込んでいたはずが、いつの間にか、素早くて器用で実は優しいこのエイパムに見合うトレーナーになりたい、と思っていた。一方のエイパムは明日も遊べるとなんとなく伝わったのか、楽しそうに走り去っていった。バカにされたなんて勘違いで、ただ遊びたかったのかもしれない。後ろ姿を見送りながら、不思議と少年の心は晴れ晴れとしていた。
これが初日の概要だ。振り返ってみれば、タスクはひとつも達成できていない。博士に報告できることなんて何もなかった。それでも、ポケモントレーナーになった日のことを、少年は忘れはしないだろう。どうしようもなくて、ありきたりで、レポート出来ないたくさんの大事な思い出を抱えて、人はポケモントレーナーになっていく。ポケモンは捕まえられなかったが、大事なものを得たのだと少年が気付くのは、ずっと後の話だ。